白央篤司の独酌ときどき自炊日記Ⅱ

フードライター。郷土の食、栄養、暮らしと食をテーマに執筆しています。連絡先→hakuoatushi416@gmail.com 著書に『自炊力』『にっぽんのおにぎり』(理論社)、『ジャパめし。』(集英社)など。メシ通『栄養と料理』『ホットペッパー』などで執筆中。

『そこにはいない男たちについて』

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料理教室が舞台のひとつと聞き、井上荒野(いのうえあれの)さんの新刊を注文しました。昨夜寝しなに読み始めて、本屋さんが差し込んでくれたしおりを結局一度も使わず、読了。今回は感想のメモです。

 

『そこにはいない男たち』


夫を喪って失意の中にいる料理研究家・実日子と、彼女の教室に通うまり、ふたりの女性が主人公。年齢は共に38歳。

まりの夫は、彼女のつくる料理に興味を示さず、自分の好きなもの、食べ慣れているものしか手を付けない。彼らはすっかり、冷え切っている。


食を共にすると、自分が相手をどう思っているかまざまざと感じられてくるもの。食べることに強い関心のあるふたりの主人公が、人生の様々なシーンで感じるあれこれ。おいしいものが、時に味気ない。おいしいものが、時にとても自分の不幸せを際立たせる。自分にとっておいしいものが、相手はまったく関心ないこともある。

心から何かを「おいしい」と共有するには、運やタイミングをはじめ、いろんな要素が必要でもある……。


いまハフポストという媒体で「家庭における料理の悩みをシェアする」というテーマで連載させてもらっているけれど、そこに届くメールも「家族が好きなものしか食べない」「何の感想も感謝もない」「家族が食に関心がない」という声がけっこう寄せられる。これは作り手へのハラスメントだよな……と感じられることも少なくない(もちろん、片側だけの声では実際は分からないけれども)。

 

読んでいてどうにも脳内映像化される小説で、料理家の実日子は板谷由夏さん、勇介は中川大志さんが思い浮かんだ(中川さんじゃ若すぎるけど、いいのだ)。しかし一方のまり役が浮かばない。ロメールの『満月の夜』におけるパスカル・オジェみたいな哀感と浮遊感がなくてはならない。そこがむずかしい。浮遊しつつ、停まっている人だ。家が、パートナーがあるのに定まっていない。その虚しさを井上さんは描きたかったんだろうか。それとも、生の実感を取り戻す実日子なのか。

 

人間というのは不可思議なもので、感じの良いこと、充実していること、前向きなこと以外でも「生の実感」というのを得ることがある。歪んだフィット感、アンバランス・バランス。まりというのはそういうひとで、簡単にいえば『青い鳥』よろしく、自分の足元にある幸せを忘れているひとなんだが、だからといって上昇や変革を望んでいるわけでもない。自分は何を求めているのか? 彼女はそこを一度でもしっかりと考えたこと、あるのだろうか。

 

料理でもそう。自分にとっての「おいしさ」を考えてみたことのある人は少ない。おいしさというより、自分が日常の料理に求めるものは何か、ということを。まりにとって、食事に関して大事なこととは何だったのだろう。大事なことがあるとしたら、それは誰かと暮らす上で優先すべきことだったのだろうか? 30代から40代にうつるころというのは、人生において何を優先すべきなのか、考えざるを得ないころでもある。何かを欲しがる代わりに、何かをあきらめる。手元に残すべきものは何かを考えなければ、すべてが手からこぼれ落ちてしまう。そして人間は、失ってからしか気づけない。

 

まりが夫・光一にカムジャタンを作って夕食を共にするシーンが、あまりにも切ない。熱い土鍋の中で育ったおいしさが、ふたりの交わらない思いによって冷えていく。汁の脂が固まって、のどにはり付いて飲み込めないような苦しさを読みながら感じた。一気に読んだと冒頭で書いたが、ここだけは随分と手を止めてしまった。

 

これは、喪失のバトンの物語。まりと実日子、ふたりのコントラストがなんともビターで、翌朝私は起きてすぐ水じゃなく、買いだめしてある甘いオレンジを絞って飲みたくなった。

 

 

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