新潮社の近くで開かれている新潮講座、15日はノンフィクション作家・石井妙子さんの講座がありました。題して「原節子の伝説と『原節子の真実』」、これが大変興味深く、心に残る時間となったんです。
石井さんは2016年の春に『原節子の真実』を出版され、文庫版が今年の1月に刊行。あとでまた触れますが、加筆され、少々趣も変わったものになったようです。
本の中で描いたことを紹介しつつ進められるのかと思いきや、書ききれなかったこと、あえて書かなかったこと、「書けなかった」ことまでが思い切りよく語られていくのに私は驚き、少なからずショックすら受けました。
講座の感想と覚えておきたいことを、ブログにまとめておきます。なお便宜上ブログ内で石井さんの言葉を「」で表しますが、おおよその大意であり、彼女の言葉、言葉づかいをきちんと録音して書き起こしているわけではないことを最初に断っておきます。
社会を拒んで生きた後半生
あまりに多くの伝説が流布されているため、何が嘘かまことかまったく分からない状態になっているーーゆえに石井さんは、ノンフィクション作家として彼女の「真実」に迫ってみたくなった、的なことを冒頭でおっしゃいました。
彼女最後の映画出演は1962年のこと。
以来2015年の逝去まで実に53年間、社会とほぼ一切関わることなく生きたわけですね。
「年をとってくると寂しくなったりして出てくる人もいる中、これはすごいですよね、やっぱり。社会を拒んで生きる、というその生き方」
年々、交流する人を少なくしていったという原節子、いや、本名でいうところの会田昌江(あいだまさえ)さん。
「小学校の同窓会が75歳のときにあったんだそうです。同級生のかたが『みんなで集まれるのもこれが最後かもしれないから』と電話して(原節子を)誘ったんですね。けれどやっぱり『私はもうそういうのに出ないのよ』と断られて。当日やっぱり会いたくて、またお店からかけても断られて」
そしてこないだはごめんね、的だったかで同級生のかたが再度電話したら、「この番号は使われておりません」の通知が流れた、とーー。
「私は昌江ちゃんに会いたかったけれど、昌江ちゃんはそうじゃなかったのかもしれない」当の同級生は思われたとか。
社会との接点を自らひとつずつ潰していくかのような、その行動。過去の名誉にまったくの未練がない潔さ。完全なる隠棲。そうまで彼女をさせたものは何か?
小津の死と原節子引退の関連は?
よく言われる「小津安二郎の死によって原節子は映画界からの引退を決意した」との伝説を石井さんは明確に否定します。
「原さんが好む女性像というのは明らかに小津が描くような女性ではない」
そして
「小津の通夜の後から、原節子は社会との接点を一切持たなくなった」というのも違う、とはっきりとおっしゃいました。
小津の死から5年、盟友であり仕事仲間だった脚本家・野田高梧(原節子の出演した『晩春』『麦秋』『東京物語』の脚本も小津と共に担当)の通夜にも原節子が来た記録があり、家族も対応したのだそう。
原節子が大女優たりえたのは小津あればこそ、という世評にも石井さんは疑問を呈されました。
「原節子が出ていなければ、小津はここまでにはならなかったんじゃないか」
たしかに『晩春』で小津調が確立したというのは世評の一致するところ。あの世界を成立させられたのは原節子無しでは考えられませんし、もし出演しなければ小津自身が戦後スランプから抜け出せなかったかもしれない。いや、無理だったでしょう。
小津との恋は?
小津の通夜に、松竹が借金の取り立てで香典を差し押さえに来たのは有名な話ですが、これは小津が最後の恋人に入れあげた末の借金だった、とも石井さんは推測されていました。川口松太郎の『夜の蝶』でも描かれた銀座のバー『エスポワール』にいたホステスがそのひと。彼女に貢いで借金をこさえた、と。
「小津は実生活では玄人にしか手を出さなかった」
原節子とのロマンスは、東宝宣伝部の斎藤忠夫氏が映画宣伝のために流したと自伝で書かれていますが、加えて石井さんは
「バーの女性や芸者とできている、なんてことを小津に関して松竹は流されたくなかった。ゆえに松竹サイドが積極的に原節子とのうわさを流した」とも考えていられるようです。
ちなみに、小津邸で『秋日和』の打ち上げがあった際、原節子の「くわえ煙草の写真があって、その前にビール瓶が倒れている写真」があるそうなんですね。これは石井さんが以前に書かれた『おそめ』、あのおそめさんの遺品にあったそうなんですが(打ち上げにおそめさんも招かれたため所持していたよう)、この原節子の姿が石井さんがそれまで抱いていた原節子イメージとあまりに違うのでショックで、そこからひとつ石井さんは人間としての彼女に興味を持たれたようです。
講義中、石井さんは何度も繰り返しました。
「原節子がインタビューで『自身の代表作は?』と訊かれ、小津安二郎の作品を挙げたことはないんです」、と。
「紀子はじめ、自分の意思を強く持たない女性像は好まなかった」、黒澤明の作品で演じたような女性、または木下恵介の『お嬢さん乾杯!』のような作品を挙げていたと。
と、このようなことを書いたので、「小津ファンの男性読者からは本当に『原節子の真実』は不評でした(笑)。でも女性読者は『わかる。私も小津作品の中の原節子演じる女性って、あまり面白いとか素敵って思えない』という声をいただきます」とも。
この意見、ちょっと新鮮でした。中野翠さんのような小津の熱烈なファンもいるけれど、世代にもよるのかな……どうなんでしょうね。
家族のこと、恋人のこと
今回の講義で語られた原節子の家庭環境、義兄・熊谷久虎を含めた人間関係の特殊さはちょっと想像を絶するものがありました。これは『原節子の真実』としても核心を成す部分と思います。「あまりにな」ことで書くのをためらわれ、実際書かなかったエピソードについても石井さんは随分と講義内で教えてくださいました。
これらはやはり、本ブログにも残しておくべきではないと考えます。興味のあるかたは石井さんの講義がもし再度あった場合、受講されてください。
しかし『原節子の真実』にも書かれていた原節子の母親の事故、そして病気のことは、彼女のキャラクターにとても大きな影響を与えたんでしょうね……。あまりに過酷な。
原さんは少女時代から読書好きで有名だったそうですが、精神的な孤独と絶望の中で、本がどれほど大きな希望になったことでしょうか。
実家は生糸問屋でもともとは富裕家庭、節子の姉たちは「グリーン車」でフェリスに通うお嬢様だったのだそうな。その姉たちの使う令嬢言葉が自然と節子にうつり、いわゆる原節子調の言葉づかいが形成された、と石井さんは解説されました。
私は『原節子の真実』から、彼女の人生にあまりな影響を与えた熊谷久虎に対する石井さんの静かな怒りのようなものを感じたんです。
そこを質問タイムにぶつけてみました。
「確かに、私は熊谷久虎が原節子の人生を狭めたように思えて、怒りのようなものを感じていたんです。けれどやっぱり、女優・原節子を見出したという時点で熊谷久虎もなかなかの人物なわけですよ。熊谷がいなければ原節子はこの世にいないんですからね。文庫化にあたって熊谷への表現をけっこう書き直した部分があります」
※繰り返しますが、石井さんの発言の大意です
私も具体的にどこ、とは書き直された場所を見つけられていないのですが、ハードカバー版と文庫版ではたしかに読んだ印象がちょっと違うんですね。
本人執筆と石井さんが判断された原節子によるコラム、新たに加えられた写真、そしてヤマザキマリさんによる解説が文庫版のさらなる魅力となっています。原節子ファンならばどちらも読むことをおすすめします。
あと、ハードカバー版で私が衝撃を受けた清島長利という存在。映画界では彼のことは常々噂されていたというか、有名だったようですね。引き裂かれた原節子の恋。
「私が恋をすると、相手に決定的な迷惑がかかる」
原さんはあのときそう強く思ったのかもしれない、と。
原さんの眼というのは諦念に満ちている、そうずっと思ってきましたが、『原節子の真実』にはその理由は幾重にも詰まっていて、ときにつらくなるのです。
入江たか子の影響
この着眼点は実に面白かったんですね。
勉強好きで理知的な原節子はずっと映画界になじめずにいた。当時の女優は芸者や水商売が前職という人が多く、素人でお堅い育ちの彼女はかなりの「そりの合わなさ」を感じていた。そこで共演者として出会った華族出身の入江たか子。はじめて教養と女性としての独立性を感じられる先輩に出会って節子は感激した……というのが石井さんの考えです。
入江の美貌をたたえるコメントを原が残している記述が紹介されていますが、実際ほかに何か裏付けになるコメントがあるのか、質問したかったなあ。
原節子が唯一仕事をしていない大監督が、溝口健二。原主演で『美貌と白痴』という企画があったが、流れてしまったそうです。
「溝口健二は『楊貴妃』で入江たか子を降板させたことで、原さんは引っかかっていたのかもしれない」と石井さん。
(また、原の姉のひとりである光代は昔、溝口健二のもとで働いており、義兄の熊谷久虎も同様に溝口門下だったこともオファーを受けなかったことに関係するのではないか、とほのめかされていました)
後年、彼女がしっかりと土地や株に投資して蓄財したのも、入江たか子の凋落と化け猫映画への出演を目にしていたことがあるだろう、とも。「ああはなってはいけない」と反面教師にしたのではないか、とも推測されていました。
幻の細川ガラシャ
原節子は常々、「意志の強い女性」としての細川ガラシャ夫人を演じたいと言っていたんですね。これは有名なエピソードなのですが、石井さんの
「あれだけの大スターで会社にも貢献してきたのだから、東宝も希望を通してあげてほしかった。代表作を作って彼女は引退したいと願っていたんですね。しかしその監督は、あくまで義兄の久虎でということだった。これがもし黒澤明でということなら通ったかもしれない。予算のかかる時代劇を、ヒットの出せない久虎では難しかった」
という言葉がまた印象的でした。
原節子は、戦後に戦争責任を問われ、数年間も「追放」という目に遭った唯一の監督・久虎を哀れに思い、また責任を押し付けた映画界に対して非常に憤りを感じていた、と石井さんは述べられました。
何よりその才能を惜しんで、戦前のような傑作を撮らせてやりたいとも強く望んでいたと。でも時代は昭和30年代も半ばになり、それがどうやらもう叶わない……と分かってきたんでしょうね。久虎の評判は新作が出ることに落ちていきました。
健康問題、経済的余裕ができたこと、40歳を過ぎた女性が魅力的な役を演じられることは日本映画界ではないであろうという諦観、裕次郎的映画時代の到来……いろんな要素が重なって、原節子は静かにフェイドアウトしていきます。
そこからさらに半世紀の隠遁。
講義は気がつけば、予定終了時刻を1時間も過ぎていました。まだまだ質問したいこともあったし、そして石井さんが用意されていたという原節子のレアな映像を拝見できなかったことはとても残念でした。
また違う形で、石井さんの講座が開かれますように。
来年は原節子生誕100年。何かイベントがあるでしょうかね。まだまだこれからも、彼女のファンが必ず増え続けると私は確信しています。