朝起きてすぐ、ピアニストの中村紘子さんの訃報を知る。
ショックだった。
中村さんの演奏に出合ったのは小学生になりたての頃、6歳か7歳のころ。テレビだった。あのとき感じた気持ちは忘れられない。グランドピアノに中村さんが座り、そしてとてもきれいな音楽が流れだした(多分…ショパンのエチュードop10-10だったと思う)。
私はあのとき、魅入られたのだった。瞬間的に「私も、これをやりたい…!」と感じたのを覚えている。
そして実際、親にせがんで習わせてもらった。時代もよかったと思う。ちょうと80年代前半、景気もよくて、日本で一番ピアノが売れた頃ではないだろうか(※註)。その後高校受験で一度中断したものの、大学生になってひとり暮らしをするまで弾いていた。まあさっぱり上達はしなかったけれど、中村紘子さんがいたからクラシック音楽の良さを知ることができた。
大きくいえば、私の青春を楽しくしてくれた人のひとり。あれは初恋にも近い感情だった、と今にして思う。
悲しい。
『ピアノとともに』
先の番組は、NHK教育(今のEテレ)で放映されていた『ピアノとともに』という番組で、若きピアニストの卵に中村さんが指導するというもの。いわゆるマスタークラスである。
(8/7にNHKで放映された『魂に響くピアノを 中村紘子さんの残したもの』より)
才能ある中高生の生徒たち(というと子どもに思われるだろうが、職業ピアニストを目指すためには最も集中的にプロ教育を受けなくてはならない時期)に、本気で熱く指導する姿が印象的だった。いまも忘れられないのは、
あなたはベートーヴェンもショパンも同じように弾く。同じような音色で弾く。それではいけない。弾き方も音も、作曲家によってそれぞれまったく違うもの。もしもこれがバッハだったら? もしもこれがドビュッシーだったら?
といって、実際に音色を弾きわけてみせたのが忘れられない。あの番組で指導を受けた子どもたちは今、どうしているだろうか。
(同上)
追っかけ時代
そして私は中高生になるにつれ、中村さんの“追っかけ”になった。
高校のころに聴いた、グリーグのピアノコンチェルトが忘れられない。浦和のさくら草ホールだったと思う。第2楽章は特に名演だった。1993年のルービンシュタイン・ゴールドメダル受章記念リサイタルはNHKで放映もされたけれど、客席にいる私が一瞬映っている。懸命に手を上げて拍手していて、思い出すと恥ずかしい。
このライヴはCD化されているが、ダイナミックに弾ききった英雄ポロネーズ、そして技巧が冴えたエチュードop.10-4がカットされてしまっている。
「あんなに良かったのに!!」
当時十代の私はフンガイした。そして……あろうことか私は「どうしてカットしたんですか!」と発売元のソニーに問い合わせ電話をしたんである。今でいえばクレーマーだ。熱に浮かされたファンというのはロクなもんではない。当時のご担当者さん、誠意をもって対応してくださって、ありがとうございました。
まさに、フィーバーだった。しかし長じるにつれて自分が本当に好きな音楽と、彼女が表現するものが違っていることに気づきだし、積極的には聴かなくなった。でもやっぱり、そのスター性と文章力のファンではあり続けた。
著述者としての業績
そう、中村さんの文章力は有名だった。
私の本棚には一冊のよれよれになった文庫本がある。
1988年に出版された『チャイコフスキー・コンクール ピアニストが聴く時代』、審査員として参加された世界的ピアノコンクールの内幕を描いたこの本を、何度読み返しただろう。
若きコンテスタントたちの人物ルポタージュとしても、クラシック音楽界の内情と問題点を浮き彫りにしたノンフィクションとしても一級品の本。発売から28年が経つが、いまだに版を重ねている。1989年の大宅壮一ノンフィクション賞にも輝いた。
つづいて出版された『ピアニストという蛮族がいる』も傑作だった。名ピアニストや、かつて一世を風靡したピアニストたちを描いた本。大作曲家にして20世紀最大のピアニストのひとり、ラフマニノフの「手」のことや、戦前に活躍し本場ヨーロッパで絶望して自殺する久野久のことなど、同じピアニストだからこその視点が圧倒的に面白かった。
とにかくその文才は昔から知られていたようで、多くの人が賛辞を寄せている(あの吉田秀和は彼女の文才を讃え、『チャイコフスキー・コンクール』の解説も手がけている)。まれに「小説家の旦那(庄司薫氏)が書いているんだよ」などということを吹聴する人がいるが、そんなことで何冊も本を出せるほど出版界は甘いものではない。自身が見聞したものを文字にしているかどうか、読めば分かる。他人の眼や手が入った文章というのは人の心を打つものにはならないのだ。
書き残してほしかったこと
ああ……残念でならないことが2つある。中村さんが出場した1965年のショパン・コンクールのことを書き残してほしかった。そしてなにより、自伝を著してほしかった。
中村さんが挑んだ1965年のショパンコンクールは、あのマルタ・アルゲリッチが優勝した年である。ピアノ界では絶対無比の存在で、歴史的名演をいくつも残している人だ。その姿を間近で見た中村さんは、彼女に何を思っただろう?
かつて『婦人公論』での茂木健一郎氏との対談で、「天才ならではのその孤独。その深さ。あれを見たら私はピアノが怖くなった」的なことを語られていたが、どういうことなのかもっともっと具体的に書き残してほしかった。著書の中でもアルゲリッチについての個人感想はまったく記されていない。
そして彼女は井口愛子という先生について習った人なのだが、この井口スクールは当時の一大流派で、彼女が中学3年生のときに史上最年少で日本音楽コンクールに優勝したとき(1959年、一位特賞。このときのヴァイオリン2位が前橋汀子)は井口一門にとっても華々しい栄誉であったろうと思うが、その後彼女は「いろいろあって」ニューヨークのジュリアード音楽院に留学してしまう。名伯楽にして日本の歴史に残るピアニスト、安川加壽子さんが中村さんを教えてみたいという希望を持たれるなど本当にいろいろあったようだが、このへんのところもつまびらかに書き残してほしかった。何が彼女をニューヨークに向かわせたのか。井口ピアニズムに限界を感じていたのか…分からない。
なにしろ3800回以上の演奏会をこなした人である。間違いなく日本人演奏家で最もオーケストラと共演した人だろう。彼女の自伝がもし書かれていたならば、戦後日本楽壇を活写した秀逸なものができたに違いない。そしてまた…晩年の彼女というのは好きなことが書けたポジションにいた人なのである。シニカルかつ辛辣に、そしてユーモアを添えて文章を作れる人だった。そういう意味でも残念でならない。
こんなに早く中村さんに関して「晩年」なんて言葉をつかうようになるとは……ここまで書いてきてまた、たまらなくなる。
悲しみがひろがっていく。
個人的セレクトによる中村紘子の名盤2枚
もしも「中村紘子ってどんなピアニストだったんだろう?」と思ってくれたら、1976年にソニーに録音されたラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を聴いてほしい。指揮は渡邊暁雄、東京都交響楽団。もう残念ながら発売されていないが、図書館などにあるかもしれない。
これぞラフマニノフといった暗鬱なるメランコリー、ロマンティシズム、そしてヴィルトゥオジティが発揮された名演だと思う。中村さんはその美貌と圧倒的な大衆人気でとかく正当に評価されない人だった。たしかに後年になればなるほど打鍵は荒く、ミスタッチも目立つようになったけれども、70年代から80年代前半の演奏はもっともっと再評価されてしかるべきだとずっと思っていた。
このアルバムにはラフマニノフのプレリュードも2曲収められており、これまた素晴らしい。ことにop.23-6は絶品で、そのメロディの哀感に満ちた歌い方、くりかえされる旋律の音色と強弱の引き分け、美調におぼれないさりげなさは「さすがロジーナ・レヴィンの弟子!」と思わせるもの(レヴィンは亡命ロシア人でジュリアード音楽院で名教師として知られた人。ラフマニノフ自身とも親交があった)。この演奏はロシアン・ピアニズムの精華だと思う。
もう一枚は1977年録音の『熱情/ワルトシュタイン』である。若き日のパッションみなぎる名演で、それでいて端正な、実によく練られたベートーヴェン。クラシックファンの友人たちにブラインドで聴かせると、ほとんどが「これ誰?」「凄い!」と反応する。名前を明かすと「見方が変わったー」とみんな言うんだなこれが(なぜか自分が誇らしげになってしまう)。
これはずっと発売されているので、ぜひぜひ聴いてみてください。
今春、麻布十番で見かけた中村さん
ああ……中村さんの思い出は尽きない。1991年だったか、サントリーホールのリサイタルで最初に弾いたスカルラッティが素晴らしかった。あんな孤独でうつくしい透明感のあるスカルラッティにはその後出合えていない。中村さんといえばショパンが代名詞だが、バッハやベートーヴェン、モーツァルトがとても良かったのだ。
そしてその3年後ぐらいだったか、これもサントリーホールで弾いたバーバーのソナタは名演だった。レパートリーの幅広い人だった。人脈含め、何にしてもレンジの広い人だった。
実は、この春に麻布十番のスーパーマーケットで中村さんをお見かけしていた。元気にカートを押して、その中には食べものがいっぱいに詰められていたけれど、手は痩せて節くれだち、抗がん剤治療を如実に感じさせた。以前にステージで何度も見た、張りのある強い「あの手」ではなかったことに絶句した。
9月には、光が丘でリサイタルが予定されていたのに。
ご本人もまだ亡くなったことを実感されていないんじゃないかと思う。さようならはまだ言いたくない。
まだ、まだ言いたくない。
7月29日 白央篤司
※註
8月24日の読売オンラインに中村さんの追悼記事が出ました。その中に日本のピアノ普及率について書かれていたので、ここに引用します。ブログ内でもふれた『ピアニストという蛮族がいる』(中公文庫版)が増刷されたとのこと。
「天才少女」と評判だった中村紘子さんは15歳になる1959年、「音楽コンクール」で最年少1位特賞となった。その年の日本のピアノ普及率は全世帯の1・6%だった。それがショパン・コンクールで入賞した65年に3・4%、チャイコフスキー国際音楽コンクールの審査員となる82年は18%に上昇、カレーのCMに出演した翌年の87年には20%を突破する。
追記1
日経ビジネスオンラインの2015年7月の記事。
こんなに病状のことをつぶさに語られていたのですね。最初に違和感を覚えられたときに精密検査を受けてくださっていたら…とどうしても思ってしまう。
追記2
ピアニストにして名文筆家である青柳いづみこさんの追悼文。
追記3
8月7日深夜0時より、Eテレで中村紘子さんの追悼放送があるそうです。
『魂が響くピアノを 中村紘子さんが残したもの』
※感想
うーーん……残念な内容でした。かなり、残念です。この制作者はあまり中村紘子さんに興味がないのでは、と思ってしまいました。随分と駆け足な内容で、一番の不満は紹介される演奏がどれも(テレビ放映的には)さほど魅力的に思えない仕上がりのものばかりだった点(N響の世界ツアーのソリストに選ばれた10代の振袖姿で弾くショパンの1番、ブログ内でも紹介したゴールドメダル受章記念の際の英雄ポロネーズ、N響との1997年9月6日のチャイコ1番)。
もっともっと、彼女には良い演奏があるのに… 。
また「彼女の残したもの」と題するならば、著述業や更新教育についてもっと触れなければ。来歴に関しての紹介がかなり駆け足で、関係者インタビューも少ない。
「一時はピアノを辞めようとさえ思った中村さん」…というナレーションがあり、技術不足に悩んだ云々、すべてナレーションだけでの処理。これが事実だとするならば彼女の人生において大変重要な箇所です(私が覚えているかぎり彼女が「辞めたい」とまで言ったことはそうはなかったはず)。こういうことを死後にドキュメントで伝えるならば出典をつまびらかにしてくれなければ。言葉は悪いですが「死人に口なし」的なことすら私は感じてしまいました。とにかく、雑なドキュメントでした。
ただ、前述の『ピアノとともに』をたっぷり放映してくれたのだけは、ありがたかった。嬉しかったです。いいところを抜粋していました。しかし…当時の生徒さんを探しだして思い出を語ってもらうぐらいのことはしてもよかったと思いますが。
追記4
9月12日に、中村紘子さんのお別れ会が行われるようです。朝日新聞の記事を転載させていただきます。
故中村紘子さん(ピアニスト、本名福田紘子)のお別れの会は、9月12日午後1時から東京都港区赤坂1の13の1のサントリーホールブルーローズ(小ホール)で。一般のファンは午後2時30分から入場できる。連絡先は、主催の音楽事務所ジャパン・アーツ(03・3499・8100)。
追記5
8月18日に『音楽の友』9月号が発売になりました。
第一特集が中村紘子さんの追悼です。発売前に編集長がツイッターでつぶやかれていた言葉が心に残りました。
9月号(8月18日発売)ほぼ印刷完了しました!特集「弦楽四重奏の世界」を急遽「追悼・中村紘子」に差し替えました。訃報が報じられたのが7月28日(亡くなられたのは7月26日)。とても長くもあり、あっという間でもあった8日間でした。合掌 pic.twitter.com/SXQ97F1bgC
— 「音楽の友」編集長 (@pochi10629) 2016年8月6日
さっそく購入して拝読、グラビア含め28ページにおよぶ充実の内容……指揮者の秋山和慶氏はじめ、30人近い楽壇関係者の方々が思い出を述べられています。8日間でこれを取材し、編集して校正するというのは並大抵のことではなかったでしょう。編集後記にも愛のある言葉が(分かりにくいのですが後ろから数えて24ページ目にあります)。 スタッフの皆さん、お疲れさまでした。すばらしい記事を、ありがとう。
追記6
テレビ朝日系列『題名のない音楽会』、8月21日放送分が中村紘子さんの追悼特集に。この番組には何度も出演されていましたね。哀悼回を設けてくれて、うれしいです。
BS朝日では28日の23時から放映予定とのことです。
※感想
NHKのよりもはるかによい追悼番組だったように思いました。凝縮されて、彼女という人柄が伝わってきた。きちんと中村さんに接してきた人が制作した…という感じがします。2004年の『仔犬のワルツ』(なんと愛犬と一緒に登場)、1974年(!)の『展覧会の絵』より第5曲目、2007年の『皇帝』より第1楽章が放映されました。いい選曲だったと思うし、なにより1974年の演奏、そしてお話が流れたことが嬉しかったです。
(↑ いつまで有効か分かりませんが、先の3曲が少し聞けます)
追記7
朝日新聞デジタル、吉田純子編集委員による追悼記事(8/15付)が思いのこもったとてもいいものでした。同世代のヴァイオリニスト、前橋汀子さんのコメントもあります。
記事内の「戦争で失われた自身の青春を子供に託すかのように、母親はこぞって我が子にピアノを買い与えた」という一文が印象的。昭和30年代後半から50年代にかけては、日本でピアノがとても売れた時代。私もその最後の波にのってピアノを買ってもらい、習うことができました。中村さんは、そういった動きを推し進めた時代の原動力だったと思います。
追記8
中村さんに旭日中受章が贈られることが決定したとのこと。
追記9
音楽ジャーナリスト、伊熊よし子さんがブログに中村さんのことを記されていました。インタビューの転記もあり、貴重な中村さんの言葉が記されていました。マズルカ集、聴きたかった。。。
追記10
12月11日、サントリーホールで追悼のメモリアルコンサートが開催とのこと。
公式サイトから、内容を一部転記します。
2016年12月11日、故人のリサイタルが予定されていたこの日に、中村紘子ゆかりの演奏家が集いメモリアル・コンサートが開催される。モーツァルト:ピアノ・ソナタ K. 310は、亡くなったその日、主を失った自宅のピアノにその譜面が残されていた楽曲。中心的なレパートリーであったショパン、ラフマニノフの名曲。そして、海野義雄(ヴァイオリン)、堤剛(チェロ)と組んでの名演が語り継がれるチャイコフスキー:ピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」が、堤剛本人の出演も叶い演奏される。中村紘子が情熱を注いだ浜松国際ピアノアカデミーから羽ばたいた上原彩子・河村尚子、現在の日本の音楽界を確かな歩みで牽引する名手、横山幸雄・漆原啓子らによって、故人の思い出がつまった名曲の数々が鮮やかに奏でられるメモリアル・コンサート。中村紘子が遺したものに思いを馳せ、それを引き継ぐ演奏家たちの音色に音楽界の明るい未来を聴く。
付記1
勝ち気で強情でしぶとくて、自己中心的で気位が高く、恐ろしく攻撃的で肩幅のしっかりした筋肉質でどこかピントの狂った頓珍漢――。ピアニスト中村紘子さんの描く典型的なピアニスト像である▼自著「ピアニストという蛮族がいる」に書いた。3歳でピアノを習い、日に7時間も鍵盤に向かい、社会のイロハを学ばぬまま大人ログイン前の続きになった自分を含め、ピアニストは文明から隔絶された「蛮族」だと笑ってみせた▼早くから天才少女と注目され、国民的な人気を集めた。「中村紘子さんみたいな若くて素敵(すてき)な女の先生について(略)優雅にショパンなど弾きながら」。庄司薫さんの小説「赤頭巾ちゃん気をつけて」で取り上げられた。一節を読んだ中村さんは不思議な縁を感じて自ら作家に電話をする。ほどなく2人は結婚した▼向日性の人柄だった。出演したカレーのCMでは台所道具のおたまやダイコンを手に優雅にほほえんだ。音楽番組の司会をこなし、音楽雑誌では軽やかに筆を走らせた▼大腸がんを公表したのは去年の初め。「抗がん剤で髪が抜けるのはシャクだから」と自ら美容院で髪を刈った。特注のカツラが似合わなかった失敗談も進んで笑い話に。舞台で肩の力の抜けた演奏ができたと喜んだ。「がんになっても皆さん安心して」と未来の患者を励ました▼72年の生涯だった。勝ち気で前向きでしぶとくて、常に周囲を励まし気品があって、恐ろしく楽天的かつ芯のしっかりした大輪の花のようなピアニストだった。
付記2
http://chopincompetition2015.com/news/3f2d4ee6-8697-4975-a519-8d73b6ffeb3c
「優れたショパン解釈のできる日本人ピアニストのひとりで、第7回ショパンコンクールの4位入賞者、のちに審査員もつとめた。日本でのショパン音楽の普及に相当なる寄与」と紹介。
付記3
音楽ジャーナリスト、池田卓夫さんによる充実の記事。
ここまで広範囲に、幅広く中村紘子さんについて書かれた記事もなかなかありません。池田さんの思うベスト5枚がアップされています。